宇宙と生命

 

〇 人口減少によりこれ以上に人が増えないということは、もう、この星のこの生態系の中では、人類という企画が衰退し始めているのかもしれない。人類の種の終焉が近づいているのかもしれない。人口減でそのままパンダみたいに、キリンみたいに、狼みたいに、トキみたいに、どんどん人類が失われていくのかもしれない。

 人類はこの星を埋め尽くし、もう十分に繁栄したのかもしれない。それで、もう、あとは衰退期なのかもしれない。人類を増やすことが幸せに繋がる社会構造、生態系秩序ではなくなったのかもしれない。

 そうであるならば、衰退したり、生態系のバランスの中に何となく増えたり減ったりしながら、生きゆく存在なのかもしれない。この秩序には抗えない。その生態系を管理して、バランスの中に生き続ける意志を保ち続けられるかどうかにかかっているのだろう。

 人の意志も、生態系のバランスの中に意欲の強さが変わるものだろう。意欲があり続けるならば成長はありうるが、そもそも意欲がないならば、衰退するものだろう。そうやって生態系秩序がバランスをとっているのだから仕方がない。

 

〇 地球上に生えるように生きる生命の活動は、元をたどれば、やはりソーラーエネルギーである。太陽の光が地球環境と生命活動のエネルギー源として影響している部分が大きい。生命の生えるように生きる生態系秩序の全体を動かしているのは、太陽の光である。

 そのため、いくら閉鎖生態系をつくっても、太陽の光のエネルギーを取り込まないと、閉鎖生態系内の生命体の生命活動は維持できないということになる。

 もし閉鎖生態系を実現した宇宙船をつくり、その宇宙船で宇宙航行をするとしても、必ず太陽光をエネルギーとして取り込み続けなければならない。
 「閉鎖生態系」と言いながらも、結局は太陽の光のエネルギーは外部から取り込まないと生命の永続性は維持できない。

 そうであるならば、太陽のエネルギーさえも外部から取り込む必要のない、より完全な閉鎖生態系をつくろうとするならば、その閉鎖生態系の内部に太陽の代わりとなるエネルギー源を置いておく必要がある。


 では、そもそも太陽のエネルギーは何からできているのだろうか。太陽のエネルギーは熱核融合によって水素をヘリウムに変換することで生まれている。

 しかし、そもそも水素の存在や化学反応というメカニズムがこの宇宙という存在概念に構成されている原因が分からない。


 そもそも「存在」とは、我々生命体の脳神経に付随していると思われる「クオリア」という感覚質によって観測されているだけである。


 それでは、

① 「何らかの『物的な宇宙の存在』を前提として、そのフィールドに我々生命体が発生した。」と考えるべきなのか、

② 「無の状態からクオリアが発生し、それによって『物的な宇宙の存在』が構成され、観測されている。」と考えるべきなのか、

このどちらであるのか分からない。その両者のどちらが正しいのか科学的に特定するには至っていない。


 となると、やはり量子力学や素粒子力学のように、物質は意志であるということにたどり着くように思われる。太陽でさえ、観測によって生まれたクオリアの意志の存在であり、観測以前に存在する物理的な実体として見ることが正しいとは限らないだろう。


 現在、人類は太陽のエネルギーをコントロールする術を知らない。しかし、もしそのエネルギーをもコントロールできるようになったのであれば、閉鎖生態系にも太陽に代わるエネルギー源を生み出すことができるのかもしれない。


 ただ、結局は太陽も時が来れば消滅する運命にある。水素がなくなれば、核融合が止まってしまう。そのため、閉鎖生態系内に太陽に代わるエネルギー源を配置したとしても、そのエネルギー源の核融合物質が尽きてしまえば、そこからエネルギーを取り出すことができず、閉鎖生態系内に生きる生命体はすべて死んでしまうことになる。

 となると、完全な閉鎖生態系をつくろうとするならば、やはり太陽だけでなく、星の生成と消滅の循環をも閉鎖生態系内に置く必要がある。星の生成と消滅は重力の影響が大きいが、その莫大な重力をコンパクトな閉鎖生態系内に実現し、管理することは現代科学が想定する領域の中では不可能であろう。


 つまり、完全な閉鎖生態系はつくれ得ない。この宇宙以外にありえない。


 人類がこの宇宙で生き続けたいのならば、太陽のエネルギーが尽きる前に恒星間航行を実現し、新たなエネルギー源を見つけるしかない。化石燃料や原子力発電も、限りある物質をエネルギー源としているのでこの太陽系内では限界がある。生命の永続性を実現するのであれば、星や銀河の生成と消滅から生まれる無限のエネルギーを扱えるようになるべきだ。我々生命体が惑星間航行を可能とする宇宙船をつくるために残された時間は、太陽が燃え尽きるまでの数十億年しか残されていない。


<参考資料>

地球から最も近い恒星は4.22光年の位置にある「プロキシマ・ケンタウリ」である。そこに到達するためには、光速でも4.22年かかるということだ。無人探査機のボイジャー1号 (17km/s)なら7万年以上、アポロ宇宙船 (10km/s) では12万年以上かかる。何とかしないと。


プロキシマ・ケンタウリ Wikipedia


〇 生命体は主にソーラーエネルギーだ。太陽が無くなれば生態系を動かす根源的なエネルギー源を失って全部死ぬことになる。すると活動が止まる。ということは、生命体は永久機関ではない。太陽があってこそ生命活動の恒常性を保ち、連鎖反応を維持できることになる。もともとはソーラーエネルギーだよ。


〇 生命体は世代を渡って自らの生存を保持するが、その意志の根源はエネルギー源である太陽だ。太陽のエネルギーが光となり、地球に降り注ぎ、植物に光合成を与え、生態系を生み出し、動物を育て、人類や私自身が存在している。その私自身のエネルギーをたどれば太陽なのだから、私自身の生存意識の構成のもともとは太陽にある。つまり、我々の意識や意志を形作っているのは太陽エネルギーだ。つまり、銀河の生成や消滅、宇宙の始まりとされるビッグバンのエネルギーが我々の意志をつくっているのだ。そうであるから、我々の意識はビッグバンのようなものだ。我々の存在、存在を感じるクオリアの意識、それこそがビッグバンなのではないか。意識が宇宙、この観測が宇宙、このクオリアの感触、感覚質こそが宇宙。今この瞬間瞬間に存在しているこの意識こそが宇宙なのではないか。


〇 意識が宇宙の始まりであるならば、我々は生まれた時だけでなく、毎朝目が覚めた時にビッグバンが起きているということになるのではないか。宇宙という存在の始まり、それが観測されるその事実こそが宇宙存在のはじまったところなのではないか。

 しかし、なぜだか宇宙は広がっているようにも観測できる。元をたどればビッグバンと呼ばれる一点から始まったようにも見える。

 観測すればするほど宇宙は広がっているだけであり、光に頼った観測をするから、高速を越える観測ができないわけであるから、宇宙は観測領域を広げれば光の速度を超えない範囲で無限に観測できるということだろう。

 宇宙の構成要素がなぜ光で観測すると空間と星という存在であるのかよく分からない。無限の観測領域があるように思えてならない。


 しかし、目が見えなかった場合は、手探りの感覚、音の感覚、味覚、嗅覚の四感覚でしかその人にとっての宇宙は構成されない。逆に感覚器官が多い動物は、超音波や紫外線を見ることもできるし、他の感覚についても感得できるということになる。その生命体にとっては、それが宇宙となって存在していることになる。(少なくとも、私にはそう見える状態に、この宇宙の生命体と呼ばれている存在は構成されている。)。

 そのため、宇宙は感覚器官からの刺激と脳神経内での感覚質、クオリアや思考で構成されているようである。もし感覚器官がなければ、おそらく脳は思考しないし、宇宙の存在を感じえない。また、自己存在の観念も存在しないと思われる。そうなると、クオリアに感じられる意識があるのか、ないのか、それさえも判別不能な無の状態と考えられる。それは、物質状態ということもできそうである。

 そうなると、感覚器官と脳神経の両方の構成が相まって、脳にクオリアを発生させていると考えられる。もし感覚器官からの情報を遮断すると、意識がない状態、睡眠状態のようになるのではないだろうか。
 脳に対して身体の感覚器官の神経が接続されているが、脳から筋肉への神経が接続されていない状態は、かなり苦しいと思われる。これは思考することができるが、寝たきり状態だろう。


 感覚器官と脳神経が一体であるならば、そもそも感覚器官は脳神経内のクオリアを発生される一部であるとも考えられる。

 となると、神経さえも他の組織と区別がつかず、結局はクオリアを脳神経内の存在と割り切ることはできない。人という形、またそれらを維持するために必要な食料や生態系、自然環境や宇宙も含めてクオリアを発生させているのかもしれない。

 つまり、クオリアに観測されうるすべてのことが、そのまま宇宙であり、クオリアを発生させる構成要素ということになるのではないか。クオリアがその人にとっての宇宙のすべてであり、その宇宙はクオリアである。

 単に、肉体という何者かを身近に感じるために、この肉体に意識があると思い込んでいるだけではないだろうか。身近に感じられるものに意識の存在を認めているだけではないだろうか。


〇 脳内の血流や電流をコントロールし、脳の活動部位をコントロールすれば、脳の活動や意識が発生する活動の最小の構成要素を割り出すことができるのではないだろうか。

 それは結局、自分自身の脳内の血流や電流のコントロールによって、自分自身のクオリアが存在し得るか否かを観測するしか、その実験の当否は割り出せないと思われる。

 

〇 私たちは、この宇宙か時空を超えた何者かによって、この四次元の宇宙空間に送り出された原子レベルで精密に組み上げられたロボットなのかもしれない。そのロボットはこの物理世界の物質からエネルギーを得ながら発生し、脳神経が発達する。その脳神経は、実はその何者かの意識と通信するためのパラボラアンテナのような役割があるのではないだろうか。だから、私たち自身が脳を観測しても、パソコンのCPUやメモリが計算規則性に従って活動するように動いているように見えるだけであり、そこに意味を読み取り、クオリアを感じることができるわけではない。脳は人体というロボットのパソコンのCPUを扱っているだけでありそれ自身には何らかの意味をクオリアに変換して私たちのクオリアに伝える機能を持っているわけではないという考え方である。

 ただ、メモリとCPUの機能によって計算されたデータを、私たちはパソコンの画面を通して確認し、その光(電磁波)のパターンから意味を読み取る。それは、まるで私たちはパソコンのCPUとメモリからクオリアに発生する「意味」を観測しているようなものだ。つまり、人体の脳とパソコンのCPUやメモリを同じような機能だと仮定すると、脳自体には意味はなく、単なる機械である。そこから意味を引き出すのは別次元の何かであり、4次元界の物質世界に存在しない何者かだ。それはまるで、パソコンのCPUやメモリの動きを人が覗いているかのように、人体の脳を見ている。その機械の外部からではそれ自身を直接観測できないクオリアという意識反応を有している。

 これはまるで、私たちがテレビゲームの世界に入り込んでキャラクターを使って楽しむように、クオリア界の何者かが4次元というバーチャル世界を利用して楽しんでいるのではないだろうか。そういう考え方であるならば、私たちのこの人体はアバターであり、私というクオリアの本体は別世界にいるということになる。別世界とこの世界を繋ぐラジコンの電波をやりとりするアンテナのようなものが、「脳」なのではないだろうか。

 そのように仮定すると、脳には感覚をラジコンロボットである人体に起きた行動をクオリア界に発信する発信機と、クオリア界から発せられる意志を受信する受信機があるはずである。その二つの機能を脳は有している可能性はないだろうか。検討の余地がありそうである。

 すべての存在は脳内の電気信号によって、クオリアに変換されているだけのようだ。つまり、物質が存在するとか存在しないとかそのようなものではなく、クオリアの認識として変換されうる脳内の電気信号がどのように送られてくるかという外界への模索なのではないだろうか。つまり、視神経も聴覚神経も、触覚も嗅覚も味覚も、すべて電気信号のクオリアであるらしい。クオリアが主体であり、電気信号を通して外界の何らかのものを通して世界として認識しているだけだ。つまり、この認識はまるで私自身がパソコンの中に閉じ込められた存在であり、外界というネットワークを通して電気信号が動いているだけだ。パソコンも同じだが、それを内側から見るか、外側から見るかの違いなのではないだろうか。つまり、パソコンにクオリアのような意志が存在していてもおかしくないという考え方だ。それを外側から見ている私たちにはその存在を観測できない。ただ、私たちはその何らかのものを通して、他者のクオリアに接したように見えるとき、なんだか充実感を覚える。この何らかのものを通してしかこの世界を認知できない私たちは、認識でさえも電気信号の束でありながらも、生命の意志や意識と呼ばれる何らかのものに接する時、なんだか無意味な電気信号に意味を持たせられる気がするのだろう。私たちの求める本質はクオリアであり、物質と呼ばれたり力と呼ばれたりする何らかのものによって伝わってくる感覚それ自体には興味を示さないのだうろ。他者のクオリアと交信するために何らかのものを通しているだけであり、何らかのものに充実感を感じるわけではないのだろう。私たちはクオリアという意識を幸せに導きたいと願いながら、この何らかのものを通して交信する物質界と電気信号を整えようとするのだ。

 外界とは、「それが赤色であるというよりも、赤色のクオリアを発生させる電気信号を脳内に送る何か」と言った方が妥当だろう。また、「あらゆる物事は、クオリアに対してそのものの性質のように私たちの脳に電気信号として入力する何か」と言った方が妥当であろう。つまり、その何者かからクオリアに対してそのものの性質として電気信号を送らないならば、私たちは観測できない。また、私にはその物事を感じられても、他者には感じられないかもしれない。そうなると、その物事は他者にとってはこの世に存在しないも同然だ。私たちはそれはそれ自身として考えがちであるが、そのものは、私たちの脳にそのものとしてクオリアに感じられるように電気信号を送る何かとして考える必要があるだろう。