価値




価値とは何か
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■はじめに

 環境や境遇の違い、立場や経験の違いによって、人は様々な困難を経験することがある。そんな中この世界で、どんな状況においても充実した人生を送るにはどのようにすればいいのだろうか。これを考えてみたいと思う。
 もしその方策が分かったならば、逆境や苦しい時期も着実に乗り越えることができるはずである。また、平穏な時間においても、感動を追及することが可能であるはずである。
 それは豊かで充実した人生を歩めるようになるのではないだろうか。そのために必要な力や、その力を導き出す視野について考えてみたいと思う。生き方や仕事、組織運営、社会政策についても包括的に考えてみたいと思う。

 そこで、より良く生きる上で良いや悪いと感じられる感覚である「価値」というものから考えてみたいと思う。
 物事に関わる際に大きな影響力を持っている「価値」というものについて考察をしてみることとする。


■価値とは何か

 価値とは何だろうか。

◇ 物やサービスは、需要に合わなければ価値が失われてしまう。
◇ ある人にとっては大変に価値のあるものであったとしても、他の人にはまったく価値を感じられないこともある。
◇ かつて価値のあったものも、いずれ時代遅れとなり、価値が失われることがある。

 このように価値というものは普遍的なものではない。それはなぜだろうか。価値は人の心が感じることであり、その心の状態によって価値は変化してしまうからである。(心にあたるものは生命体全般に存在すると考えられるが、ここでは人として考察する。)
 では、「心」とは何であろうか。もし「心」が解明されたならば、人が求める最適な価値を創造することはかなり容易いはずである。

 (人にとって最適な価値とは、心に充足感を与え、豊かな人生を歩むことができるものではないだろうか。それは理想の状態ではないだろうか。)


■心とは何か

 では、「心とは何か」について考察してみよう。
 心はどこにあるのだろうか。かつて古代エジプト人は、人体の胸の中に心があると思っていたらしい。現代人も、鼓動する心臓を生あるものの象徴として心の位置として表すことがある。
 しかし、神経科学を学べば、どうやら人体の脳の中にあるようだとされている。脳の活動と、心の快楽やストレスなどの反応は、科学的に因果関係が証明されてきている。
 しかし、未だ「われ思う故にわれあり」の部分である「意識(クオリア=感覚質)」と脳の繋がりは未だ科学的に証明されていないようである。
 では、そのクオリアとはいったい何であろうか。ここに「心」の存在があり、このクオリアが満足する状態こそ、豊かな人生を歩む上で必要となるものなのではないだろうか。


■クオリアとは何か

 クオリアとは何だろうか。クオリアとは、おおよそ生命体に存在すると考えられている。しかし、すべての生命体は本当にクオリアを有しているのだろうか。
 私自身は、私自身のクオリアを感じることはできる。しかし、他者のクオリアを直に感じることはできない。それにもかかわらず、私たちは普段、生命体にはクオリアが存在するようだと考えている。

 では、一体、生命体のクオリアはどこから発生しているのだろうか。
 かつて古代には「雨が降るのは天が泣いているのであり、地震や台風が起きたならば、台地が怒っているのだ」と考えていた人々がいたようである。彼らは自然に対しても、生命があり、クオリアの意識を有する存在だと認めていたと考えられる。

 しかし、その時代から現代までに、生物学や医学が大きく発展してきた。これは、現代人の多くが様々な事柄に「科学的手法」を採用し、誰でも同じ過程を踏めば同じ結果を導くことができるという再現性の高い思考手段に妥当性が高いと感じているからである。
 そのため、現代人は、先人の積み重ねてきたその科学的思考方法を参考にし、自然の現象を「物理法則」であると位置づけた。そして、生物学においては、基本的に生命体(生物)を「エネルギー転換(代謝)を行い、自己増殖や自己保存能力をもつもの」と定義した。
 これらの認識により、生命体の生命活動と自然現象を切り離して考えるようになった。このことから、自然の物質の現象は生命体とは異なるものと位置付けていることから、自然の物質的な現象にはクオリアは存在しないと認識するようになった。生命体とされているもの以外のものに対して、クオリアが存在する可能性を排除していったということである。

 そうであるならば、自然ではないすべての生命体にはクオリアがあると言い切ることができるだろうか。私たちは動物に対しては共感を抱くことがあるため、生命体にはクオリアがあると思いがちである。動物の多くは、私たちに対して何らかの共感させる作用を引き起こす要素を有しているということである。
 しかし、犬や猫などの生命体にはクオリアが存在しているはずだと認めることができるとしても、植物や細菌、ウイルスなどに対しては、たとえ生命体であるとしても、クオリアが存在していると確証を持つに至るほどの思い当たる手がかりはないように思われる。

 そのことについて考えるにあたって、生命体とロボットの違いについて考えてみよう。ロボットはクオリアを持っていないはずである。それは人間が科学的な手法によってその機械的メカニズムと規則性をつくり上げたという私たちの認識があるからである。
 しかし、生物学の発達は、生命体の生命活動についても、原子レベルの機械的な化学反応の作用の組み合わせによって構成されていると解明し続けている。そのため、たとえ先ほど挙げた生命体(生物)の定義である「エネルギー転換(代謝)を行い、自己増殖や自己保存能力をもつもの」であったとしても、人間もまるでロボットのように化学反応を繰り返しながら一定の規則性を有する物理現象のに過ぎないのではないだろうか。まったく同様に、人間が生存活動をしているとしても、それはまるでロボットのように見えるのではないだろうか。

 すると、生命体一般や人間は原子レベルで精密に組み合わされたようなロボットと何が違うというのだろうか。ロボットと生命体の違いについて明確な境界線を引くことはできるのだろうか。それなのに、現代人が生命体や人の脳の中にクオリアが存在していると考えているが、それは何故だろうか。
 このように考えていくと、「私は他人を、どうやらあの人も人の形をしているから人であろうと思いこんでいるだけではないだろうか」という疑問が発生する。もしかすると私の見ている他者は、高性能なアンドロイド(人型ロボット)のように科学的な一定の規則性に従って機械的に動いているだけの「哲学的ゾンビ」と呼ばれるクオリアを持っていない存在なのかもしれないと思えてしまう。
 現代科学で分かっているのは、生物学や医学などの科学的手法によって、「クオリアはどうやら動物の脳の作用に影響を受けており、関係性がある」と経験上とデータにおいて理解されているだけである。この疑問を解決できるような「人体の機械的な化学反応の生存メカニズム」と「人体の脳の中にあるとされるクオリア」との繋がりについて未だに証明されていないのである。

 そこから分かるように、私たちは他者や他の動物に対しても生命とクオリアの意識を私たちそれぞれの「主観」によって認めているということになる。(哲学の実存主義もこれに関連するかも)そのように、私たちは他者がクオリアを持っており、それが意識や価値を感じているという確信を私たちのクオリアそのものを通して直に感じることはできていないのである。他者の感じているように思われるクオリアに生まれる価値は、どうやらその人の後々の行動パターンによって推察する他ないということになる。その推察とは、私たちの脳内にあるミラーニューロンと呼ばれる神経細胞が他者の行動パターンを見ることによって刺激され、自分の感じたことのあるクオリアの価値を参考にしながら他者にもクオリアがあるようだという共感作用を引き起こすことによって理解しているのだと思われる。しかし、これは他者に対してクオリアの存在を"あるもの"と仮定して推測しているものであり、クオリアそのものを直接観測して感じることができているわけではない。他者の感じているクオリアの感覚を、私たちのミラーニューロンの反応と私たち自身の記憶と経験の中に蓄積された参考となる資料の中でヒットしない場合には、把握できないということになるだろう。

 そうなると、天候や地変、自然に対して何らかの共感を抱き、そこに何らかの自然の意識があるとして共感を覚えていた古代の人々のクオリアへの認識と何が違うというのだろうか。私たちは自分自身以外の人間や動物にもクオリアの存在を認めることにしているが、古代の人たちと私たち現代人の考え方には何も違わないのではないだろうか。自然に対してクオリアの存在を認めて精霊や神々と位置付けていた古代人の認識と、一定の科学的メカニズムを持つ生命体に対してのみクオリアの存在を認めている現代人の認識とは、生命を定義する境界線が異なるだけであり、根本的な物の見方自体は何も違わないと言えるのではないだろうか。
 科学的な理解によってもなおクオリアと物質の繋がりを証明できていない私たちは、「自然にはクオリアはない」と言いきることはできないのではないだろうか。

 その疑問に加えて、別の疑問も生まれてくる。生命体は生きていくためには自然からエネルギーを取り入れなければならない存在である。そのため、生命体は生命体単独ではこの宇宙の中に生きることはできない。すると、そもそも自然からエネルギーを取り入れて生存活動を維持している生命体を、自然と原子レベルで明確に分離して区別することなどできないのではないだろうか。生命と自然の間には、明確な境界線を引くことができないのではないだろうか。

 果たして私たちは、「自然にはクオリアは存在していない」と本当に言いきることができるのだろうか。もしかすると、古代と現代ではクオリアの存在位置に対する認識が違うように、科学がさらに進んでいくことで、現代人が脳の中に宿るとしているクオリアの在りかも危うくなっていくことがあるのかもしれないと思えてしまう。


■クオリアと価値

 このように、生きている生命体の物理的メカニズムを読み解いた現代の科学では、未だにクオリアを確かな存在として観測できていないのである。人は未だ他者のクオリアをよく分からぬままに生きているということになる。
 科学的手法は、人間に危害を与えるような生存する上での危機を回避するなどに役立つ技術的手法にはなったと思われる。しかし、未だに人のクオリアや、クオリアが感じうるクオリアと、そのクオリアの中に現れる「価値」そのものを完全に解明したわけではないと言えるだろう。

 そんな中にも、私たちは一定の生命体に対して勝手に共感する感情を抱いてしまうことがあるため、誰もが納得している現代的な合意点として、それらの生命体にクオリアの存在を認めることにしているのだろうと思われる。
 つまり、このように現代までずっと、その時代その時代に、その時代の人々が最も価値あると合意している手法によって価値ある物事を認知し、価値あると思える手法によって物事を定義してつくり出し、それらの価値を体感できるように選択をして判断してきたものだと考えられる。
 つまり、現代人も古代人と同じようにこの時代に価値があると認められた妥当性の高いとされる手法によって価値をコントロールしているだけであるということになる。そのような合意の中に自身と他者の中に価値を感じられるようにしようと努めているのだと考えられる。




人と価値
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■人の感じる価値の検証

(注:人間以外の動物の感じている価値についてはここでは取り扱わないこととする)
 さて、ここで価値を感じとる心とその意識である「クオリア」について考えてみた。自分自身のクオリアについては直に感じることができるためその存在を認めることができるが、他者のクオリアは直には感じ取れず、確かなものではないと把握した。しかし私たち人間は、社会生活上の経験則として他者が他者自身のクオリアの中に価値を感じていると思われる状態を把握している。そして社会生活上、基本的にギブアンドテイクの関係で他者の感じる価値に貢献することで、自分自身も彼らから価値あるものを提供される可能性は高くなる。そのようにすることで、他者と共にそれらの価値を感じながら豊かに生きていくことができるはずである。

 しかし、他者にとって「良い」と感じられる価値を創造することは難しい。他者は自分とは様々な面で違いがあることもあるからだ。例えば身体的な個体差もあるし、社会生活上の立場も違えば、持っている知識、経験してきたものなども違うだろう。言語や文化圏が違うこともある。同じように感じた経験があることは、同じように感じられる価値を自身の経験としても体感的に知っているため、他者の感じる価値を創造することもできるかもしれない。しかし、自分の経験したことのないことについて、他者の「良い」と感じている価値にはなかなか気づくことは難しい。しかしそのような違いも把握していくことができたならば、他者に対して最適な、価値あるものやサービスを提供することができるようになるだろう。

 ではそのような、他者が感じる価値をより正確に把握するにはどのようにすればいいのだろうか。様々な方法があると思われる。例えば、他者の言動に注目することでその人の感じている価値を把握できる部分もあるだろう。しかし、把握できない部分も常にあるのではないかと予測していないと、他人のする理解できない不測の事態に対応できなくなってしまうことがあるだろう。ただやはり、他者の感じる価値についての妥当性を上げていくには、他者の感じる価値を考え続けていくことが大切に思われる。


■数値化された価値

 その他の方法としては、何らかのデータの数値を読み取る方法がある。しかしそのデータの示す内容の妥当性はよく検証する必要がある。「価値あるもの」とされるものは誰かによって指定され、一つの分野として数値化されるなどし、確立しつつあるものもある。例えば国民総生産の数値や資産金額、人口の規模、何かの商品の人気度、知名度ランキングなどがある。しかしその指定に至るというその分野の価値を認める作用も、その分野の先人により政治的な人間の力や経験的重要度によって決定されているのであると考えられる。そのため、その指定された分野の物事自体に社会からの需要がなくなってしまったりするなど、その分野自体が時代に適合しないものとなってしまった場合には、その先人の経験則によって「価値あるもの」とされた指定は役に立たない。するとその分野を今までのように価値あるものとして学んだり、その数値が高くなるように努めても、現代でその価値を利用して同じような効果を期待して貢献をしていくことはできないだろう。また価値指標はそれを見る人によって、利用方法によって善し悪しが変わってくるものだ。数値は客観的に残る確かな基準にはなるが、一般普遍的な価値体系を表しているわけではない。たとえば人気商品があったとしても、誰もが持っている商品に価値を見出さない人もいる。他人と違うことに価値を感じる人もいるからだ。そのような人に、人気商品という数値の表示は、その人にとっての商品の質や満足度を判断するための妥当性の高い数値にはならない。また、みんなが知っているけれども、なかなか手には届かない高級ブランドもある。皆が知っているからといってその製品に利用価値があるというわけではなく、「皆が知っているブランドを使用することに価値を感じて使う」という人を対象にした製品である可能性がある。その場合はその製品それ自体に価値があるというのではなく、その製品の「知名度」がその商品の価値をつくり出していることになる。そのような場合もやはり、その数値の表し方はその人の求めるものや目的に適合しないことがあるということを検討しておきたい。

 社会に合った、時代に合った、人々の満足により正確に適合した価値指標をつくり続ける必要があるのではないだろうか。価値指標が時代遅れならば、人々の現代的満足に数値が一致しないと思うからだ。その価値指標の数値を「客観的だ」として信頼しても意味がない。例えば貧困の時代には、「パンが一つあるより二つある方が、幸福度が高い」と判断できたものが、現代は貧困でないため、環境から考えても「味わい」や「品質」、「安全性」などを示した指標がよりシビアに使われている段階にあると考えられる。この場合、後者の指標を使うことが前者よりも時代に適応しており、判断の妥当性が高くて良いと思われる。このようなかたちで、そこで使われている「指標」が、現代人の満足度を十分に示すには時代遅れであるという可能性も常に検討しておきたい。国家の場合を例にすると、ある国の現代人がシビアに感じている価値指標で評価しなくては、いくらその国について他国のある価値指標よりも数値が勝っているからといって、その国の人々の満足度が低いとは限らないのである。それはその国の現代人がシビアに感じる価値指標は、他国が上回っている価値指標の上位に来る欲求段階であり、より新しい時代の価値指標である可能性があるからである。


■数値的価値に恵まれない場合には

 自身が誰かの指定した指標によって評価される際、良好な数値に恵まれていない場合もあるかもしれない。それによってなにか不利なことを感じることがあるならば、その指標の「価値として示しているもの」が自分自身の重視していることや目的に極めて適合した妥当なものであるかをよく検討して把握するとよいと思われる。また、他者からの何らかの指標を使った数値による評価を受ける際は、評価される際に他者の利用する指標に果たして他者自身の求めるものや目的に応じた妥当性のある指標であるのかを問いかけると良いかもしれない。すると他者自身の考えている指標に対する考え方の妥当性の程度を調整することができるかもしれない。

 それでもその他者や社会の人々が、一般に使われた自分にとって不利な数値でしか私たちを評価し判断することができないような場合にはどうしても不利益を受けてしまうことがあると思われる。十分な調整を行うことができないほど余裕がない場合や、他者自身が自らにとって重要となるものが何であるのかなどについて明確に理解して持っていない場合もあるかもしれない。その数値でしか物事を判断することができないような知識や理解や経験のない人である場合や、そのような人間関係を築き上げることしか意識にない場合、そのような付き合い方しか行っていない場合もあるかもしれない。やはり私たちにとっては十分な評価を受けることはできないだろう。

 そのように、現在使われている指標や数値では十分な評価を受けることができない場合の解決策としては、新しい時代や新しい社会の形をつくり出していく「政治的作用」に働きかけることによって、社会的に数値や指標の評価の妥当性の欠陥を啓発していく方法があると考えられる。また、その指標の問題に関して直接働きかけるのではなく、社会の別の分野や要素の発展や理解を促すなどして社会環境や人々の心理状態にゆとりや余裕をつくることによって、間接的にその指標を採用する意識を弱め、その数値にシビアになって評価を行う必要のないようにコントロールしていくという手法があると考えられる。そのようにあらゆる可能性を探り、複合的な手法を使うことによって、他者から受ける評価が悪くならないように影響を与えることも可能かもしれない。必要性に迫られているならば、そのような手法も検討してみるとよいのではないだろうか。




価値をつくる
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■価値を創造し、生きる

 現代社会の人々は様々な職種で分業して働くことによって価値の交換を行い、社会を成り立たせている。この社会で私たちがより良い生活をしていくためには、何らかの形で他者から「価値がある」とされるものを提供できる必要がある。それは社会では基本的に人々が価値を感じるものをつくり出すことによって、その人々から対価を得ていくことができるからであるそのため私たちが価値を体感したいならば、人々が価値を感じるものをつくりだすことが必要となる。ただ価値は他者によって決められ、私たちはその他者の心に影響を受けながら社会生活を営んでいることをよく理解している必要がある。

 そこで、人々により高品質と認められるものやサービスであるを提供できる必要があるだろう。高品質なものやサービスを提供できないならば、私たちは世界や社会の人々から支持を得てその人々から対価を得ることもできないからである。そうなると、私たちはこの社会生活の中で価値ある豊かな人生を歩み、生存を維持していくことはできなくなってしまう。

 では私たち人間の心のクオリアの中に、「高品質な価値」と感じさせる形態は、いったい何からどのように生じているのだろうか。その形の根源を示す概念を理解できたならば、高い価値を持つとされるものを生み出すことができるはずである。そのためそれを考えてみたいと思う。

 価値は人のクオリアによって認識されているものである。つまり人がそこにいて、そのものに対してその人の中のクオリアに何らかの印象を抱くことによってこそ価値が生まれている。生命活動のメカニズムの中にあるそれぞれの人の心によって価値は評価されているのである。よってこの宇宙の中に人がいなくとも成立するような「普遍的な価値」というものは存在しないということになる。価値とは「普遍的にこの世に存在している」というものではなく、人の心によって感じられているものであるからである。そのため、高品質と感じる価値とは、人の心(クオリア)によって決せられるものである。

 となると、より良い価値を生み出すためには、人が生きている生存運営メカニズムの中に現れる心の姿を解していく必要がある。その心の求めにフィットするものでないと、価値を感じてもらうことができないからである。
人の心のメカニズムは、身体の生命活動のメカニズムや他者との人間関係、その人の置かれている場の環境、その人の物事への理解のステップなどにも大きく関係しているものである。時代やタイミングによっても変わっていくものである。

 そのように価値は常に様々な要因の下に形成されたそれぞれの人の心よってその時その時に感じられている存在である。そのため、人々の心の中に溢れるそれらの現れる心的現象の多様性や秩序にバランスをもたらし、価値を感じられるように物事を創造していく必要がある。すると、この世界において人の心は十分に満足できる状態に至ることができるはずである。

 そのように生命活動のメカニズムの中に現れる心の姿に注目してつくり出す価値をコントロールできるようになったならば、それがより他者から対価を得られる可能性が高い「高品質」であると評価される妥当な形といえるのではないだろうか。




価値をつくる方法
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■価値をつくる方法

 どのようにすれば人々にとって良いと感じられる価値をつくることができるのだろうか。価値をつくる方法について考えてみよう。


■科学的

 現代社会で最も価値が高いとされやすいものは、あらゆる学問を「科学的」という、すべての人類が合意形成に至れるステップを踏んだ「事実」とされるものの中にあり、それらをすべての人の感性においてより受け止めやすい形で表現した物やサービスではないだろうか。またその両者による手法でつくり出す物事の形を追求していくことではないだろうか。ここに科学的で妥当な思考力を身に付けていくための「学問をする」という価値が生まれると考えられる。


■力と美

 この宇宙には、「物理的」な因果関係の他に、「心理的」な因果関係が存在していると思われる。その二つを詳しく分析してみよう。

〇〔力〕「論理」 … 人間の生命存続に重要である(生存の維持)
物理的な因果関係とは、科学的、論理的、合理的な側面が強調される「力」による相互に影響する作用と捉えてみる。
→自然法則を科学的に探究し、課題達成を行う妥当な方法を見つける
→生態系保存して人間の生存運営を確実に守る
→合理的、論理的、科学的に考察する力
→経験値を上げ、将来の生存可能性を上げる
など

〇〔美〕「感情」 … 人間の気持ちに対する配慮である(満足の維持)
心理的な因果関係とは、文化的、感性的、精神的な側面が強調される「美」による相互に影響する作用と捉えてみる。
→感性にやさしい
→精神的な満足度
→受け止めやすい表現
など

この「力」と「美」の品質が高ければ高いほど、人や社会をコントロールする影響力が大きくなると思われる。政治や経営など人の生活や運営に関わる問題を解決していく器の大きさも、この品質にかかっていると考えられる。物事を成り立たせる際に、どちらの作用に偏りすぎてもいけないと思われる。最小不幸と最大幸福を実現し、人に貢献をしていくためには、両者ともバランスの良い状態をつくり上げることが大切だと思われる。


■緊張と緩和

〇 人間の生命活動の中にある心境は、ほとんどの面で「緊張」とその「緩和」によって形成されているようである。その緊張と緩和の人間の生命活動のエネルギーを自然の物理法則の中に調和させ、より心地よく、よりきめ細かくコントロールしていくことで、最大限の価値を感じ続けることができるようになるはずである。聞きたい曲を気分に合わせて聞くように、見たい映画を見て楽しむように、人生をそれぞれの人の今の意欲にとって最適な歩み方を選択できるよう、物やサービス、制度、人の言動、社会環境などを、それぞれの人にとって最も価値を感じられる形となるようにバランスよく整えていくと良いと考えられる。そのように宇宙の様々な物事を生命体生体メカニズムが、より心地よく流れゆくように構成していけばいいわけである。そのような人の生存活動の緊張と緩和の波のメカニズムに沿っているならば、その人の命が途切れるまで常により良いと感じられる価値を生み出し続けることができると考えられる。この世界の物質、物理現象などあらゆるものを組み合わせ、それぞれの人の生命活動やそれぞれの意欲や心境に合わせたよりきめ細かいステップを踏みながら「緊張」とその「緩和」が組み合わさった心地よく感じられる物やサービスなどを提供していくことが、より良い価値をつくり出す方法であると思われる。そのため運用体制なども人間の生体リズムやテンポに合うように構成していく必要があると考えられる。

〇 生命体の多くは緊張と緩和の要素で成り立っている部分がある。そのため物事の運営上の「アメとムチ」、「陰と陽」、「静と動」、「光と影」などは、恐らくそれぞれに「緊張と緩和」の両面と同じようなことを表現しているのだと思われる。経営にも、スポーツにも、武道にも、芸術にも、音楽にも、娯楽にも、あらゆるところでこのようなことが言われていると思う。人間界ではおおよそその考え方で上手くいくということではないだろうか。


■生命体の生存運営メカニズムに調和

・過激すぎない
・体力を無駄に奪い過ぎない
・休息や休憩なども取り入れる
・無理をし過ぎないこと
・激しい脳疲労を防ぐ

 その生命活動の緊張と緩和の波を整えていく。緊急時には全力で走るため、テンポなどと言っていられないだろうが、きめ細やかな程良いテンポをつくることができれば、適度に速足でも運営上の満足度は維持できるだろう。


■価値が失われる要因例

 価値が失われてしまう要因を良く理解すれば、価値が失われない選択が可能となるはずである。それは、企業や組織の運営上も良好であるし、自分自身がこの社会の中を生きるにあたって価値を価値と感じ続けられる状態に適切にコントロールし、充実した時間や状態を得られる選択が可能となるはずだ。価値が失われる要因を網羅的に把握すれば、価値が失われないようにしていく選択が可能になるはずだ。それは、そのものの価値を生かし続ける上でも必要なものであろう。

〇価値が失われる要因例
〔場違い〕 … 必要な場所に必要なものやサービス、人などを配置していないために、それらに価値を感じることができない。
〔過剰入手〕 … 食べきれないほどの食事が出されて、それをもったいなく思ったりすることがある状態がある。また、使い道がなく、邪魔になるほどたくさんの鉛筆を手に入れてしまうなどの過剰入手の状態である。
〔タイミングが悪い〕 … 必要なタイミングにヒットする人やモノやサービスを提供しなくては価値がない。
〔時代遅れ〕 … 今の時代の人々の求めるものに適合していない状態。
〔時代に早すぎる〕 … その社会の人々にとって理解困難なほどにレベルが高すぎたり、多くの人がそれを得たいと思う欲求段階に至っていないためにその良さを体感してもらうことのできない状態。
〔刺激が強すぎる〕 … 刺激の強い価値を求めて追い続けてしまい、その結果身体的な疲労や精神的な疲労感によってそのものに対して鬱屈した気持ちになってしまう状態がある。価値があったとしても、刺激が強すぎて高い緊張状態が慢性的に続くようになると、人の健全な生命活動にとって有害となる場合がある。 
などがあるのではないだろうか。


■その他の参考

〇 注意したい点がある。有名な画家のいくらかは、本人の死後に自らの絵画が高く評価されていることである。そのように、自らの生きる時代では人々に価値を感じてもらえないという場合もある。同じように、様々な技術や芸術であっても「その社会にとっての最先端の価値よりもさらに先に行きすぎてしまったもの」であれば、その時代の多くの人々は価値を感じることができないことがある。「時代遅れ」であることに価値がなくなってしまうことはもちろんであるが、このように「良いもの」をつくることに熱中するあまり、今の時代に求められているものより進みすぎてしまい、そのものの価値を十分に体感してもらえる人がほとんどいないという場合も想定しておく必要があるだろう。

〇 「一時的に生み出す一過性の価値」や、「長期的に感じることのできる価値」、「永続的に感じられるよう維持し続けていく価値」など、物事の姿や形、過激さなどの程度は、その物事によって違っているものであり、変わりうるものである。それらを上手く組み合わせ、社会やこの世界をバランスよく彩ることで、価値をつくり続けることができると考えられる。

〇 私たちは社会の中で普段は意識しなくとも他人がつくり、コントロールしている多くの価値に影響を受けながら生活している。
その価値の影響力を読み解いていくように心がけていけば、様々な物事についてどのようなメカニズムで価値をつくり出しているのか捉えることができ、その本質を見抜くことができるようになると考えられる。すると、私たちもそれらの価値を創造する力を手に入れることができるのではないだろうか。その力はこの社会や自然環境の中でより良いとされる価値をつくり続け、私たちが時を歩み続ける中で私たちに充実感や幸福感をもたらし続ける力になると考えられる。そのように社会の様々な物事に注意を払い、価値がつくりだされるメカニズムを読み解くことで価値をつくり出す方法が分かるはずである。




価値社会と生きる
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■価値社会を生きる

〇 価値の価値たるゆえんを理解すれば、それぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの方法にてそれぞれに活動し、この世界にそれぞれの人にとっての価値をもたらし続けられる方法や選択が分かるようになると思われる。そのように組織や共同体、社会や世界を誰にとっても充実したものにつくり上げていくことが、私たちのするべき最も妥当な良い選択なのではないだろうか。

 私たちも私たち自身の感じるクオリアが、この四次元の物理的な世界に影響を及ぼしていく作用によって、建材や将来に渡って十分に価値を感じ続けられるよういつも考えながら選択をしていくことが、継続的な充実感や幸福感をつくり出す上で最も良い方法ではないかと思われる。

 また、この世界から価値を得られるように努め、また生み出し続けていくことができるように行動していく人がいる。不足した感情を埋めるために価値を感じられるものを手に入れようとする人や、日々の充実した生き方を探求する人。自然界の物理法則などを科学的に解明することによって人々にとって有益な理解を追及しようとする人。政治や経済など社会科学を探求することによって人間の活動に最大限の価値を感じられるようにコントロールを試みる人などがいるだろう。それぞれの人はそれぞれの立場で自分や他者が価値を感じるように行動しているはずである。そのようにすれば、この世界を充実したものにしていくことができるとそれぞれに感じているからだと思われる。人々がある分野に価値を感じ続ける限り、その分野にてより高い次元にある価値を開拓し、またよりきめ細かい部分まで物事を洗練させていくのだろう。

 「仕事」や「お金」というものもまた、社会の中で生きる人にとって価値ある人生を歩む上での手段であると考えられる。「仕事」や「お金」の価値を自身の置かれている社会環境の中の立場や、自身の人生観の中に位置づけて考えることができたならば、その人自身にとっての最大限価値を体感できる最適な職種や仕事の形が分かり、また必要となるお金の量が分かるはずである。それを得られるようにその人自身が活動していけば、その人の求める最適で納得できる状態に近付くことができるはずである。


■価値は変動的な物である

 その私たちが提供したもの、提供できるものに価値を見出す人がいるかは、様々な状況の中を生きる人々の、様々に変わりうる心の状況によるのである。人は社会の中に生きているため、その社会の置かれている時代環境によっての需要となるものも変わってしまうものである。そのように、社会の中に生きる人々の求める価値や価値観は様々なものが影響しており、またそれは変動しうるものである。そのためその場の環境やその時代の人々の感じているものに適合するようなものを提供していかないと、他者の心が価値を感じるものを生み出し続けていくことはできないということになる。そのため、私たちが変化の中において社会に新しい価値をつくり、社会に十分な貢献をしていくためには、人々の心の様々な価値の感じられ方やその価値変動に応えられる準備をしていく必要がある。


■他人の感じている価値の不確実性

 私たちは他者が価値を感じうるクオリア(意識)という存在を持っているのかを体感的に把握することができない。他人が感じている価値をそのまま直に感じることができないのである。現代においても未だに私たちは他者の感じている価値を他者のクオリアそのものとして直に感じることはできないのであるから、人の創造した物事に対して、他人がどのような印象を受け、どのような価値を感じているのかは最終的に分かることができない。その感じ方を正確に知ることができないのである。

 するとある時には、他者の価値観の変化によって物事や環境を変化させてしまい、そこで生きる私たちの感じる物事や社会環境は自由になったり、窮屈になってしまったりと変化することがあるだろう。他者のつくる物事や社会制度などが常に私たち自身にとっても良いと感じられる価値を有しているとは限らないからである。そのように、他者の感じているものによって私たちに悪影響を及ぼしてしまうという可能性があるならば、他者が感じてつくりだす物事や社会環境の形が私たちにとって不利益にならないかを不断に監視していく必要もあるだろう。

 このように、より良い生活を実現するために世界に対して価値を感じ続けられるようにコントロールしていくためには、私たちがこの世界で他者とともに社会生活をしながら生きていく中で、他者の感じるクオリアの価値を知ることができないという不確実性を理解して考えていく必要があるだろう。またその上で、他者や私自身が今現在や将来においても継続的に満足を得ながら生きられると思われる選択を続けていくためにはどのように行動していくと良いのかを考えていく必要があると考えられる。


■価値社会の歪み

 価値とされるものが価値を持つゆえんを理解したならば、自他共に価値を感じることのできる方法を選択していくことに関心が向かうことが多いと思われる。社会が健全に活動できる状態であれば多くの場合、他者と共同で生活した方が様々な面で価値を継続的に手に入れることができるからである。

 ただその過程で注意しておきたいことは、人間は自分自身のクオリアが現在感じている価値については十分に良し悪しがつくことが多いが、未来に感じる価値は保障されておらず、予測しても常に不安定であることである。自分の過去の選択についても、現在に通じて最大限の価値を生み出すことのできる最善の選択であったのか分からないこともあるだろう。

 また、社会の人々の価値観は変動することもあり、その変動した環境下で生きる私たちに必要となるものも変わりうるものである。そのように、将来も今と同じことをして同じように満足を得られるとは限らないものである。そんな中、私たちは選択を続けながら生きていくことになる。

 人によって経験してきた物事は違っている。物事の感じ方も異なっている。求めるものも違っている。選択するものや選択できる機会も異なっている。そのような違いの中で行う様々な選択の違いの積み重ねによって、人と人との間には後々の境遇に大きな差が開いてしまうことがある。そのような格差や大きな違いのある中で、その人たちと同じ社会を共有し、共存を続けていくことには大きな苦痛を感じてしまうこともあるだろう。そうした人々の心境の歪みを円満にまとめ上げることができるように社会の仕組みをコントロールする必要も出てくると思う。そこに、「政治を行う」という価値が生まれると考えられる。

 また、ものによっては他人がつくり出した物事に対して、刺激の強さや影響力の強さに怯(おび)えてしまうこともあるだろう。そのような影響力の強い価値作用は自分や人々に脅威とならないようにしっかりと管理し、健全な秩序ある姿にコントロールされていることが求められるだろう。そのコントロールの方法や形、程度などは、それぞれの国家や所属集団によって様々に異なっている。

 そのコントロール作用にまるで神が為したかのように思えるような人を救う仕事や、指導者の実力や理解の器の大きさに救いを感じることもあるだろう。そのようなことが起きる理由は、もともとそれらのコントロールの方法やルール、制度の形は、結局は人がつくり出しているものであるために、そのためそれを扱い、維持している人の心によってどのようにでも形づくることができる性質のものであるからである。つまり、人が人のために何をするかにかかっているものである。よって、誰もが価値を感じられる形に物事をコントロールしていくことが大切となると考えられる。

 しかしそれでも社会が全ての人にとって健全に感じられるような価値を有さない形に変わってしまうと、負担を抱えた人は自身の心の中のクオリアが感じている「他者」や「社会」に対して抱く印象(クオリアに表れる外界に対して抱くの価値)が荒廃してしまう人が出てくるだろう。その人はそのことを他者や社会の人々に伝えるためのコミュニケーションや接触を試みることがあると思われる。それでも他者や社会に対して最低限生きていくための価値をも感じることができなくなってしまった場合には、その人はその他者や社会に対して攻撃的な行動を起すこともあると考えられる。すると喧嘩や揉め事、事件、テロ、紛争、戦争などの問題が発生してしまうと考えられる。


■価値社会を維持していくために

 社会がそのような悲しい事態に陥ってしまうことがないように、私たちは仕事をしていく必要があるのではないだろうか。そのようにしていくことが、私たちがこの社会の中で現在や将来においてもこの社会に対して価値を感じ続けられるものだと考えられるためである。このように組織や社会の価値を保っていくことを考えると、社会学的なより良い社会実現に向けて選択すべきものは自ずと明らかになっていくと思われる。それらを一つ一つ実現し、より良い社会づくりに貢献していくことで、私たちも現在や将来において充実した日々を過ごしていくことができるように思われる。

 社会に広く良い影響を与えることができ、より良い社会を形成していく貢献ができる人物になるためには、社会のあらゆる出来事を直に受け止めながらも、心中が秩序づいた姿を保てるだけの理解や実力が備わっている必要があると思われる。その理解や実力、許容範囲の器の大きさでもって社会を認識し、様々な問題に対応することができたならば、自他共に「良い」と感じられる社会をつくることができるはずである。そのため、私の心の中を全て他者に公開したとしても、他人や社会の人々に自然に受け入れられるような健全な秩序ある整った状態に準備しておきたいと思う。他者や社会の人々は、その私の中にある知識や理解の論理体型が健全な秩序ある整理された状態であることに価値を感じると思われるからである。そのようになれるよう、私自身の心中を十分に秩序づけておくように努めていきたいと思う。そしてその心中は他者や社会の人々にも何らかの形で影響を与え、この社会をより良い姿に形成していく力になると考えられる。すると私も他者や社会から貢献を認められ、何らかの対価を得て生きていくことができるはずである。そのような貢献ができる人になれるよう努めながら、私は今を生きていきたいと考えている。企業活動や組織活動においても、そのような意識を持って努めていくことがすべてをより良い状態にまとめ上げていくためには必要となるのではないかと思われる。




価値あり続ける力
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■価値あり続ける力

 価値は人によって、場所によって、環境によって、時期やタイミング、時代によって変動するものである。私たちがこの社会の中を生きるにあたって、そのような多様で変動的な社会の中で変わりゆく人々の心の求めに応えられる力を身に付けていく必要がある。そこで、「学ぶ力」、「考える力」、「考え続ける力」を参考に、社会の中で強く生き抜く人になるために必要となる力として、「価値あり続ける力」を提唱したい。経済の動きによってお金の価値も変わってしまうものである。時代の流れによって、社会の形も変わってしまうものである。そんな中、私たちに価値をもたらし続ける確かな方法は、価値を生み出し続ける力ではないだろうか。多様な状況や変わりゆく社会の形に対応続けていくことのできる力こそ、「価値あり続ける力」である。「価値あり続ける力」を身に付けていくことで、社会の人々の中に変動し続ける価値の増大や衰退に柔軟に適応することができるため、変化の中においても安定的に生きていくことのできる力となるのではないだろうか。そのような社会の中で必要な価値、より良い価値を生み出し続ける力こそ、生涯に渡って私たちに恒常的な充実感をもたらす方法なのであると考えられる。そのため変動的な現代社会の中においては、「価値あり続ける力」を身に付けられることが、求められているはずである。

 では、「価値があり続ける」とは、どのようなことをいうのであろうか。価値あり続けるためには、他者の持つ欲求や社会の人々の需要に対応し続けていく必要がある。物事が人々にとって価値があり続けるように形づくることのできる力は、社会の中で人々と共に生きていく人に必要な力である。

 自身の中に価値あり続ける力を備えるには、書籍から学んだり、情報収集したり、歴史を探ったり、法学や倫理学を学んだり、政治に関心を持ったり、社会について学んだり、部分社会の価値ではなく社会の広がりを考えてみたり、異文化を理解したり、人と交流したり、議論し合ったり、本音を探ってみたり、人を助けたり、社会のバランスを考えたり、未来を予測したり、生態系を守ったり、変化する状況に適応できるようにしたり、危機を回避したり、自身のやり方を変化させていったり、ステップを踏んだきめ細かい制度をつくったり、技術を社会貢献に生かしたり、科学技術を適切にコントロールしたり、短中長期的にも良いと思われる選択をしたり、過激な価値の乱用で秩序を乱さないように緊張と緩和の程よい波の中に物事のバランスを整えたり、資本主義の負の影響による企業闘争で人々の生活を脅かさないようにしたり、他人に対して心理的な負担を強いるような乱暴な社会制度をつくらないようにしたりと、様々な活動をすることによって得ていくことができると考えられる。

 自然科学も、社会科学も、人文科学も、その他の学問も、私たちがより良く生きていく中で必要となる価値をつくり続けるための参考となるはずである。そして様々な学問を必要に応じて、その人自身にとって価値あると感じる姿に位置づけながら学ぶようにしていくと良いのではないかと思われる。そして人をよく見、社会をよく見、国を良く見、世界をよく見、生態系をよく見、自然環境をよく見、宇宙をよく見、また、その中の生命をよく見る必要があると思われる。この宇宙に存在する様々な科学的法則を様々な学問分野に渡って読み解き、この宇宙の中に生きる人や生命の姿を見、その心を推察していくことが良いと考えられる。

 私たちは変動する社会の人々の感じている価値体系を敏感に感じ取り、その価値の変化に変動的に応えられる力を身につけていく必要があると思われる。

 すべての人が他者や社会の人々にとって価値があると感じ続けられる力を得ることができたならば、いじめの事件などの問題もなくなっていくはずである。格差社会や地方衰退などの問題も軽減することができると考えられる。一つ一つの社会問題は、社会のスムーズな調和的な変化の中に穏やかに解決されていくはずである。
その人や生命体の心の中から生まれる求めに応え、価値を提供し続けられる力を身に付けていけるよう理解に努めることが、この世界で充実した生き方をしていくための手段と考えられる。すべての人が他者や社会の人々にとっても価値ある存在としてこの社会の中に強く生き続けていことができることによって、人類の平和的な共存と個々のより良い生存運営が可能となるはずである。価値を生み出し続けることは、私たちの共存とバランスのとれた環境、バランスのとれた社会の中にある共栄を可能とするはずである。

 それらを実現していく手段の一つとして、それぞれの立場でそれぞれに学び、それぞれの仕事を遂げていくと良いと思われる。私たちの仕事も、その役割の一つを担うことができると思われる。

 「価値あり続ける力」は、恐らく人にしか身に付けることができないと考えられる。機械やロボットなどの生産設備がいくら整ったとしても、たとえ人工知能が開発されたとしても、人にしか身に付けることができないと思われる。つまり、人間であるならば価値あり続ける力を身に付けることが可能であり、人間にしか生み出すことのできない技術であると考えられる。価値あり続ける力は、指標や数値では簡単には測ることができないものである。例えばある企画を達成していく際に、価値判断を行うため何らかの部分について期間を限定して取り上げて数値化することもある。しかしそこで使われた基準や数値の価値でさえ変動的なものである。

 そのような世界や社会に対する認識を前提として捉え、この世界により良い価値を創造し、私たちの命の限り価値あり続けようではないか。その価値あり続ける力を、命と共に世代を渡って繋いでいこうではないか。人や生命体の中に、永遠の価値を残そうではないか。

 「考え続けていく」という脳の疲労感の高い状態では、価値を体感し続けることは難しいことがある。価値あり続けるためには、考え続けるという能動的な側面だけでなく疲労を軽減するために休息をとることなども含まれている。適切なタイミングで適切な時期に休息をとることもよいと思われる。そのように人の生命活動に合わせて活動したり休んだりしながらも、価値あり続けていくことができるように運営を心掛けていけば、この宇宙の人類社会において、私たちがバランスのとれた存在であり続けることが可能なはずである。

 私たちの価値あり続ける力を使った運営を心掛ければ、この世界と社会において、バランスのとれたより良い存在であり続けることも可能なはずである。私たちの価値あり続ける力を使った運営の中に、学問や技術の学びや、人々との交流が位置づけられるならば、自ら生き抜く力や人々に貢献していく力を備えたバランスをもたらす存在として生きられるはずである。自他共に最良と思える状態をつくり出し、それを保っていくことができるはずである。

 価値あり続ける力は、価値の変動するこの社会の中で新たなる課題に直面し、極めて深刻な状況に陥ったとしても、この世界をあらゆる方法や考えを駆使して捉え直すことができるはずである。そのように自ら解決策を導き出すことができ、人々と共に生きるためのより良い価値を創造し続けていくことができると考えられる。価値あり続けるためには、自分や人類、全生命体のつくりだす生態系とその命が世代を渡って連鎖する様子を捉えた生命の大河全体をあらゆる学問分野を統合的に結び付けて考えながらより良く生きていくための課題を解決していく力が必要となるはずである。


~~~~~~用語解説~~~~~~

 「考え続ける力」は、課題達成のために様々な方法を試行錯誤していくための力を表した概念である。そのため、人と共に生きていかなくてもいい場面でも適用できる概念である。「価値あり続ける力」は、社会の人々の心に価値をつくり出していくことを中心にした概念である。そのため、社会という共同体の中で活動する際に適用していくことのできる概念である。このように、「価値あり続ける力」は、人と共同して生きる中で活用できる社会性の中で求められる「考え続ける力」のことである。課題達成のために必要となる「考え続ける力」という概念を、「価値を提供していく」という人々と共に生きる上で必要となる課題に適用すると「価値あり続ける力」になる。