お金



仕事の対価
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


■お金という価値


 物事の価値をお金の金額やお金の流ればかりで見ないことだと思う。

 「お金」というのは私たちが生まれた時には存在していたため、社会には「お金」が当然に存在していると思ってしまうものである。しかし、そんなものはもともと地球上にはないのである。時代を遡って考えてみよう。ちょっと周りを見渡すときに、自分の目に「原始時代フィルター」を使うイメージで見てみることとしよう。職場のお隣さんは、動物の毛皮の服を着て仕事をしている。この家々や建物は、村の人が作ってくれた木とわらで作った小屋である。机は石や木の板で、紙の役割は岩や石の破片である。外に出れば土を踏み固めた道と、草むら、小川、遠くに山が見える。さて、この時代、物はあってもしっかりした「お金」という存在はないのである。


 こんな世界では、どんな人たちを仲間にして暮らしていきたいだろうか。助け合える、協力し合える、話がわかる、通じ合える仲間ではないだろうか。そして、敵から身を守るために共に戦い、より良く生きるために共に働き、共に感動し、共に幸せになれる仲間ではないだろうか。時代を遡って考えてみると、人間はもともとそういう生き物だと思われる。というわけで、経営や仕事をしていくにあたっても、根本的には社会の人々にとってそういう仲間のような存在であると良いのではないかと思われる。


 お金というものを社会の中に創り出したため、お金がないと生きていけないように思ってしまうものである。しかし、お金は「人間」という存在の後からできたものである。まちや社会も、私たちの生きるための仕事も、基本的な部分はお金をやり取りする以前に既に存在していたものである。しかし、お金との良い付き合い方を考える上では、価値や仕事を安易にお金のような金銭的な価値に結び付けて見てしまうことのない見方も心得ておくと良いと思われる。


 他の事例を紹介する。感謝されればお金をもらうことができるはずである。そのため企業活動や仕事で手に入る「お金の量は他者からの感謝の量である」と思っている人がいるらしい。しかしこの考え方では、どの仕事に就いても給料額が変わらない制度を採用している社会主義国家では通用しない。また、宝くじで当たった時に手に入るお金も説明することができない。このように、お金という存在を他者からの感謝に等しく換算できるとは言い切ることができない。


 もう一つ似たような事例を紹介すると、「仕事の対価がお金になる」と思っている人がいるようだ。確かに仕事の対価としてお客さんからお金をもらったり、経営者から給料をもらうことがあると思う。しかし、仕事の対価として必ずお金はもらえるものなのだろうか。また、仕事の対価としてお金がもらえたとしても、「仕事の量や質」は「お金の量」に必ず比例する社会の普遍的な法則なのだろうか。


 お金は仕事の対価なのかという疑問の答えは、その面もあるが、そうでない場合もあるといえるだろう。同じ仕事や労働をしても人によって必要な労力が違うことがある。それでも賃金が同じであることもあると思う。また、社会からの需要や組織運営の状況が変われば、同じ仕事をしても得られる対価は変わってしまうものだと思う。仕事は、場所や環境、組織が変わってしまえば、同一労働が同一賃金とはいかない。そうなると、お金は労働の対価というより、「お金を労働の対価にしよう」という人々の「意志」が、その社会や組織に存在するお金の流れを動かす制度を形づくり、維持しているといえると思う。


 どうだろうか。このように、「お金の量や価値」と「仕事の量や質」はイコールにはならないのである。仕事の価値はもともとお金だけで換算できるものではないのである。物やサービスの満足度とお金の量も、完全には比例しないものである。それに、お金を多く得たとしても、お金というものはもともとこの世界に存在していなかったものであるから、本来的にお金から満足を得ようというのは無理なことなのだ。


 ではお金というものをどのように見て、どのように関わっていくことが良いのだろうか。その疑問を解消するためにお金の性質について考えてみよう。


 お金は、人が社会で一緒に生き、それぞれの人がそれぞれに幸せになるために生み出した、価値を交換する「交流の手段」のようなものだと考えられる。人が感じる「価値」というものを、社会の人々が納得できる程度に合意して価値をお金の数量に仮のものとして置き換えているだけなのだ。お金はそもそも価値の仮の姿であり、他者と価値を交換しやすい一つの手段でしかないのである。


 そのため、仕事ではどれだけの量の仕事をこなし、それによってどれだけのお金を生み出したかなどという数値的なものは、本来ほとんど当てにならない。それよりも私たちがどう生きて、どう人々と交流し、どんな助け合いで、どんな感動を共有できたか。その辺が仕事の根本的な姿であり最も重視すべきものになると思われる。


 もともと生きるためにお金なんて必要ない。だから、仕事なんてもともとみんなで幸せになるためのボランティアのようなものであって、そこに皆で幸せになるための一つの手段として、社会の中にお金を流し、価値というエネルギーを分け合えるようにしているというぐらいのものではないだろうか。


 こう考えると、社会全体の皆で生きている中に、お金がちょっと流れているというぐらいのことだと思われる。そのため「お金があるから私たちは生きている」という感覚は、社会全体の大きな視野で考えた場合は成り立たないものだと思われる。それは、お金は社会のシステムの中で非常によく使われているため必須のものであるように思えてしまいやすいが、地球上の人々が社会全体が生きていくという根源的な視野の中では一つの要素にすぎないものであり、すべてではないからである。


 そのため、社会全体が共に生きられるように社会全体に対して協力し、支援していく姿勢で仕事をしていかなくして、組織が健全な生存運営を保ち、その組織の構成員を社会の人々が承認して生かしてくれることはないと思う。

この考え方からは、「お金がないから良いものを生み出せない」という経営上の意識の障壁は、結構簡単に乗り越えられると思わないだろうか。そんなものは幸せな状態を創り出すにあたって根源的に必要なものではないからである。つまり、お金がなくても人々に貢献していく方法なんていくらでも創り出せると思われる。満足度は、お金があってもなくても大して関係ない。お金自体では大したものを生み出すことはできないだろう。生み出したい幸福のために、手段の一つとしてお金が動くことがあるというぐらいのものだと思う。もともと「お金から何か幸せが生み出されるものだ」という発想は、間違いであると思う。その辺も考えて組織や社会の制度をつくると、皆が共に幸せになれる組織の運営形態をつくり出すことができると思う。


 そのため、私たちの仕事に重要なのは、「社会の人々にどれだけの幸福度を生み出せるか」という価値の創造性を重視することが大切であると思われる。「お金を求める以前に、人々と共に感じられる幸せを思うべきである」という考え方が物事を改善していく上で妥当性が高い考え方ではないだろうか。このように考えると、金銭的につらい境遇に陥っていたとしても、「この場から頑張っていこう」と思えたりすることもあるのではないだろうか。そういう考えが組織内に普及し、お金と社会との関係の認識が十分に定まっていると、安易な金銭的不満によって組織のモチベーションが低下してしまうようなことも少なくなるのではないかと思われる。


 そのような理由から、仕事や企業活動では、「共に生きていくために社会との協力関係を築いている組織」をつくり出していくことが大切だと思う。その助け合いや共生関係の分野や領域の考え方は社会階層や組織、団体などによってそれぞれ異なるところがあると思う。それら様々な社会の側面の全体で、全人類を共生させていくバランスを保てるように設計していくことが大切だと思う。


 その役割の視点では、お金は「生命配分のエネルギー」と言えるような部分もあると思う。お金は、人の感じる価値をお金という形で将来に向かって保存できるのである。お金を使った交流は、物々交換ではないので、万人と取引することができる。その共通の価値というエネルギー単位を形にしたものである。


 社会の中でお金という価値のエネルギーは、人の生命の存続と気持ちの高揚のために使われ、他者に渡っていくのである。できればその過程を回りまわって、お金の価値のエネルギーを人類の生命活動の永続的運営に最大限貢献できるように使っていき、回していきたいものである。その役割配分の中に、地方創生とか国際化などの政治政策の視野も経営と同時に組み合わせて考えていくといいのではないかと思われる。


 以上のお金の見方についての話を少しまとめることとする。お金は人間社会が生まれた後につくりだしたものであり、お金は社会の中で人々と価値を分け合う交流手段として利用されているものである。そのため、お金を得ていくことを仕事の目的として考えてしまうのはやや短絡的な考え方であり、社会全体で見ると成り立たない考え方である。その見方ではより良い価値を生み出し、この社会の中で秩序あるバランスのとれた充実した生き方を継続していくことができないと考えられる。お金を扱う上では、仕事の目標を自分自身と社会の人々とが共により良い生存運営を行っていけるように位置づけることが大切であると考えられる。